千葉県の落花生は、作付面積・生産量とも全国の約80%を占めます。その千葉県の中でも、八街市は、作付面積、生産量ともに県内一番を誇る日本一の生産地です。(※1)
それに加え落花生加工業者及び販売店は約30店以上(※2)。落花生加工機械メーカー、日本に唯一の落花生研究室もある「落花生の中心地」であります。品質の改良・加工方法の改善などを通じてつくられた八街の落花生は、日本一と称賛されております。
※1 令和元年千葉県農林水産業の動向及び平成18年度千葉県作物統計
※2 令和三年現在
第一位 千葉県 | 81.5% |
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第二位 茨城県 | 11.2% |
第三位 神奈川県 (※神奈川県を含むその他で) |
7.3%※ |
(令和元年作物統計) |
第一位 八街市 | 14% |
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第二位 千葉市 | 12% |
第三位 佐倉市 | 8% |
(平成18年千葉県作物統計) |
落花生の歴史は、自ら多くの困難に立ち向かっていった先人達の歴史でもあります。生まれ故郷のアンデスから世界へ、日本、千葉、そして八街と伝わった落花生の栽培。
そして何故、八街が日本一の落花生の名産地となったのか?
進取の精神をキーワードに歴史を紐解きます。
落花生の原産地は、アンデス山脈を誇る南米のペルー、ブラジルのアンデス地方と云われております。ペルーの紀元前遺跡から落花生が出土しており古代から利用されていたのがわかっています。やがて、15〜17世紀におきた「大航海時代」に南アメリカ大陸にやってきたスペイン人やポルトガル人が、アンデスの地より落花生をヨーロッパに持ち帰ってから世界中に広がりました。落花生が新大陸を目指した冒険家の力となったのです。
日本には、江戸時代の宝永3年(1706年)に中国から伝わり、「南京豆」という言葉が残っていますが、栽培はされてはいなかったと考えられています。一方、沖縄県では「ジーマミ(地豆)」と呼ばれて古くから栽培されていたとされております。
広く栽培される様になったのは、明治時代から。明治4年に神奈川県国府村(現在の大磯町)の渡辺慶次郎氏が、明治6年に同県吾妻村(現在の二宮町)の二見庄兵衛氏がそれぞれ中国から種子を取り寄せ栽培した記録が残っております。二見氏はその後栽培しやすい種子を発見し、神奈川県の栽培の普及に大きく貢献しました。
千葉県での栽培は、明治9年山武郡南郷町(現在の山武市)の牧野万右エ門氏が神奈川県から種子を取り寄せ試作したのが始まりとされております。翌明治10年には、初代の千葉県の県令(現在の知事)の柴原和氏が鹿児島から種子を取り寄せて、普及に尽力しました。
千葉県の落花生の普及に大きく貢献したのが、匝瑳郡鎌数村(現在の旭市)の戸長(現在の市町村長)であった金谷総蔵氏です。
当時の村は、やせたひどい砂質土のため、畑作として適当な作物がありませんでした。金谷氏は、数々の作物を育て失敗を重ねた結果注目したのが砂地でも育つ落花生でした。千葉県より譲りうけた種子2升(約2kg)ほどから120キロの収穫を得た金谷氏は、落花生の栽培に確信を得て、農家一軒一軒をまわり栽培を勧めます。しかし、普及にはいたりませんでした。そこで金谷氏は、落花生を栽培しようとする人々に必要なお金を自らの田畑を売って生み出しました。その熱意と粘り強い指導に村人たちは認識を改めました。やがて高い収入を得る農家が出始めるようになり、村全体に広がっていきました。
やがて転機が訪れます。明治15年に東京の商人と売買契約を結び、販売ルートを確立。落花生の栽培と販売とを結びつけることに成功しました。そして、落花生は千葉県の特産品の一つとなっていきました。
進取の精神で、地域のため落花生の普及に努めた金谷総蔵氏。千葉県旭市にある鎌数伊勢大神宮境内には、金谷氏の功績をたたえた「干潟落花生記」の落花生の記念碑があります。
鎌数伊勢大神宮
千葉県旭市鎌数4314
八街市は、千葉県の北部一帯にある下総台地(しもうさだいち)の上に位置しています。八街市が位置する内陸部は、川がなく水が得にくいため大きな集落が形成されず、そのほとんどが原野か牧草地でした。江戸時代には、小金五牧と佐倉七牧と呼ばれる広大な馬牧が広がり、八街市には佐倉七牧のうち柳沢牧(八街市の北西部)と小間子牧(八街市の南東部)がありました。この様に、八街市は農業がほとんど出来ない地域だったのです。
苦難の開墾
明治2年、明治新政府は、東京に溢れる江戸幕府の失業した下級武士らの窮民対策に迫られていました。新政府は、窮民対策に下総台地に広がるこの牧の「開墾」を採用します。東京府に開墾役所を設置し、旧江戸の豪商を奨励して開墾会社を設立しました。開拓地には、開拓していく順に名前をつけていきました。8番目の開拓地として「八街」と名付けたのです。
地主になる夢を抱き多くの入植者が八街にやってきました。台地特有の強風が吹き、天候不純が続き開拓は困難を極め、多くの人が夢を諦めました。しかしその中でも、八街の土地で耐え抜き農業を続ける人々の原動力になったのが、八街の土地に最適な作物の落花生の登場です。
落花生は八街へ
明治4年、神奈川県が中国より取り寄せた種子による栽培の成功をきっかけに、千葉県でも栽培に成功。明治10年、初代千葉県令(現在の知事)が落花生の栽培を推奨します。その後、旭市の金谷総蔵氏が、困難の末に落花生栽培の普及そして販売に成功します。この成功により落花生の栽培は、千葉県に広がって行き、そして八街にやってきます。
落花生は、干ばつに強く、比較的痩せた土地でもよく育ち、水はけが良い土地を好みます。八街付近は関東ローム層に覆われた土地で非常に水はけが良いため、落花生の栽培に最適な土地だったのです。
躍進
八街にやってきた落花生栽培は、明治30年に大きく前進します。それは総武鉄道八街駅の開設でした。それまで孤立的な開墾地であった八街は市場と直接結びついたことにより急速な発展をみせます。作物等の販売において周辺市町村より優位に立てたことに加え、化学肥料の入手が容易になり痩せた土地でも生産性が上がり、開墾地ゆえの余裕のある耕地により作付け面積も増えていきました。こうして落花生の栽培を含めた八街の農業は、躍進を遂げるのです。
更なる躍進・名産地の誕生
戦後の食糧不足の中、栄養価の高い落花生は食品としての価値が急速に高まり、売れ行きが伸びました。その結果、需要が上回り価格が高騰しました。このため八街市周辺で落花生の栽培が盛んになり、旭市に代わって八街市が落花生の集積地となり、多くの関連商人が誕生しました。昭和24年には落花生の耕作面積が全耕地の約80%を占め、日本一の生産量を誇り、この頃から「八街の落花生」が全国に知られるようになります。昭和28年には、八街市の全農家の95%が落花生の栽培を行うほどに発展しました。
現在でも、八街の落花生栽培は、土壌を良くする効果や比較的栽培の手間がかからない利点から輪作作物として重要な位置を占め、作付け面積・生産量ともに日本一を誇っております。
八街へとつづく落花生の歴史は、先人達が困難に果敢に挑戦した歴史の一つです。硬い殻を破り芽生え、小さい黄色い花を咲かせる落花生の姿は、進取の精神をもった先人達の姿に重なります。そしてその側で「がんばれ」と応援する様に小さい花はひっそりと咲き続けてきました。これからも立ち向かう人々と共に咲き続けます。